直島新美術館プレトーク第一弾
「個々の施設から美術館群へ:ベネッセアートサイト直島のこれまでとこれから」
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「発火点としての私」
橋本麻里
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逢坂さん、倉方さんのおふたりは、ベネッセアートサイト直島に直接関わるお話をされましたが、私が取り上げるのはその「前史」にあたること。ベネッセアートサイト直島の活動は現代の事象ですが、過去にも似たような事象があり、そのことが同時代の美術にどのような影響を与えたかについてお話ししたいと思います。
話の軸となるのは、発火点としての〈私〉、つまり、〈私〉の情熱や志が発する強力なエネルギーが、アートにどのような影響を与えるかということです。戦前頃までの文化は、〈私〉の意思や嗜好によって動かされる部分が大きかった。その〈私〉の中心にいたのが、数寄者、コレクターたちです。茶道具以外でも有力なコレクターは数多くいましたが、やはり茶の湯の領域で活躍していた人たちの我の強さは、よく知られています。電力事業に深く関わり、「電力の鬼」と呼ばれた松永耳庵、三井財閥を支えた益田鈍翁、富岡製糸場の経営者だった原三渓。彼らは明治時代初頭の井上馨(世外)や團琢磨(狸山)に続き、明治時代後期から大正時代にかけて活躍した、近代を代表する数寄者です。お金と文化の力を得た近代財界の数寄者たちが、現在よく知られる私立美術館のコレクションの礎を築きました。例えば五島美術館、畠山記念館、出光美術館、三井記念美術館、静嘉堂文庫美術館……。財閥の歴代当主たちが収集したものもあれば、一代で成り上がった風雲児の収集したものもあります。公立とは異なる私立美術館の個性の豊かさは、さまざまな背景を持つ数寄者、コレクターたちによってつくられました。
左から:益田孝(鈍翁)1848-1938年、松永安左衛門(耳庵)1875-1971年、原富太郎(三溪)1868-1939年
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(https://www.ndl.go.jp/portrait/)「数寄」という語は、もとは愛着の程度が並ではない、好き嫌いの〈好き〉で、中世前期頃に登場してくる言葉です。当時は特に和歌に対して、愛着の程度が並ではないことを意味しました。中世後期になると、それが茶の湯や立花、その他の芸道も含め、芸、あるいは趣味の道に対して並ではない愛着を持つこと、あるいは持っている人たちのことを指すように変化していきます。
あくまでも〈私〉個人が好きである、という一人称の情熱に根差したエネルギーは、時に大状況を変えていくほどの力を持つことがあります。〈私〉の力でものを集めることに関わる、近代の大きなトピックのひとつに「廃仏毀釈」があります。慶応4年/明治元年(1868)3月から9月にかけ、数次に分けて発出された太政官布告のうち、仏教語を神号とすること、仏像を神体とすること、神社に鰐口・梵鐘その他の仏具をおくことの禁止などを定めた3月28日令が、いわゆる「神仏判然令(分離令)」です。古代以来の神仏が習合した状態を認めず、両者を分離し、神社の社殿内外に存在する仏教的な要素を取り除くことを求めたもので、仏像や寺院の破壊を奨励する文言はありません。にもかかわらず各地で苛烈な破壊行為が行われました。その惨状に対して岡倉天心らが中心となり、古社寺保存法を制定。茶道具や仏教美術の再評価が進められていくのが明治時代の後半です。
再評価には当然アカデミズムも関わるのですが、それに先行するかたちで、〈私〉的な立場から文化財の網羅的な収集と再評価を行い、新しい文脈のもとに再統合したのが数寄者たちでした。
とりわけ評価のアップダウンが激しかったのは仏教美術で、数奇者たちは仏像や仏画を、信仰から離れた純粋な美術品、鑑賞対象として見、評価しました。例えば茶席において、信仰とは別の文脈、設えで見せる、かざる、その価値をプレゼンテーションする。つまりキュレーションを行ったのです。左:「 孔雀明王像」平安時代・12世紀、東京国立博物館蔵、国宝(原三溪旧蔵) 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
中・右:「臨春閣」江戸時代前期、公益財団法人三溪園保勝会、重要文化財桃山時代から近代初期まで継続し、豊穣な装飾性や、絵画から工芸までを包括する総合性などを特徴とする造形芸術上の流派は、近代以降「琳派」と名付けられます。それこそ「再評価」そのものですが、その当事者、後援者となったのが、原三溪でした。三渓は横浜・本牧の、当時は海岸に間近かった景勝地に、一の谷、二の谷、三の谷と水を集める風光明媚な苑池を整備し、「三渓園」をつくりあげました。近代に開発の始まった横浜という、文化的な施設の未だ少ない土地に、京都から旧燈明寺三重塔(室町時代)、旧東慶寺仏殿(江戸時代前期)、紀州徳川家の夏の別荘であった臨春閣(江戸時代初期)など多数の古建築を移築し、文字通りの別天地をつくり上げたのです。
この時代、三渓園のほかにも小田原には鈍翁の掃雲台、京都・南禅寺には野村得庵の碧雲荘など、邸宅や茶室、庭園を組み合わせた別荘が整備されていきました。彼らはさまざまな形で美術作品を使い、見せるのですが、その手段のひとつとして茶会を催しました。必ずしもクローズドなものばかりではありません。たとえば京都で開催される光悦会と並ぶ、近代を代表する大規模な茶会として知られる「大師会」。明治29年(1896)、鈍翁が弘法大師空海にまつわる品を手に入れたことから企画した茶会で、以後三渓園、畠山美術館、護国寺と会場を移しながら、昭和49年(1974)からは根津美術館で開催されています。
当初の大師会は、大きな会場に複数の茶室が点在し、それぞれの茶室に設えられた茶道具を展覧する、道具拝見の会でした。それとは別の建物でお茶と点心をいただくという、いわゆる「大寄せ」形式の茶会がこの時をもって完成します。江戸時代以前にはなかった新趣向の茶会は、現代で言えば展覧会形式、と見ることもできるのではないでしょうか。数寄者秘蔵の道具を僅かな客だけに披露するのではなく、限界はあるにしても、ある程度多くの人に公開する、体験してもらう形式の茶会が、この時代の数寄者たちによって創案されたのです。
他方で三渓は、西洋の美術史研究を踏まえた上で、日本美術史を構築しなおそうとした美術史家、矢代幸雄のパトロンでもありました。また、東京における茶の湯の総本山ともいえる護国寺の茶室を整備した高橋箒庵は、『大正名器鑑』という茶道具の名品のカタログ・レゾネを編集しています。アカデミズムと協力しながら、美術史学の近代化を図る者、書物という形でのドキュメントを通じて、茶道具の価値の再編を図る者、当時のコンテンポラリーアーティストである日本画家を支援する者。このように、近代の初めにも、ベネッセアートサイト直島の活動につながるような試みが行われていたこと、そこには〈私〉の情熱が必要不可欠であったということ、そしてこの〈私〉の情熱こそが、現代におけるベネッセアートサイト直島の活動をも支えてきたのではないかという結論をもって、話を終えたいと思います。
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橋本麻里Mari Hashimoto
小田原文化財団 甘橘山美術館 開館準備室室長。金沢工業大学客員教授。新聞、雑誌等への寄稿のほか、美術番組での解説、キュレーション、コンサルティングなど活動は多岐にわたる。近著に『かざる日本』(岩波書店)ほか、『美術でたどる日本の歴史』全3巻(汐文社)、『京都で日本美術をみる[京都国立博物館]』(集英社クリエイティブ)、共著に『世界を変えた書物』(小学館)、編著に『日本美術全集』第20巻(小学館)など多数。
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4名が瀬戸内地域、ベネッセアートサイト直島での文化芸術活動の特徴とこれからのベネッセアートサイト直島への期待などについてディスカッション形式で語り合いました。